第51話   庄内竿の近代作法   平成15年10月18日  

大正時代に継竿が作られた。

文明の進歩としての交通手段は其れまでの徒歩から自転車次に自動車、汽車へと変わっていった。庄内竿は江戸時代から明治に入ってもずっと延べ竿のままで使われて来た。自転車はともかくとして自動車、汽車の場合は四間とか四間半という長い竿を持ち込む事は非常に不都合であった。交通手段を利用して釣に行く為には、どうしても短くして携帯性を持たせなければならなかった。

そこで鶴岡の大八木釣具店が其の期待に沿うような釣竿を開発した。長い竿を二つもしくは三つに切って管継ぎと云う技法で竿に携帯性を持たせたのである。其れは実用新案第100183号の真鍮パイプ継である。真鍮パイプを使って内側に、くの字型の溝を切り差込継ぎ手にイボ状の頭を漆を使って接着し差込を回すと竿が抜けなくなるという代物である。英国のハーグ社で売られていた砲金製のフライロッドの継ぎと同じようなやり方であった。更に昭和の初め鶴岡の竿師山内善作は改良を加え現在使われている真鍮パイプ螺旋継を考えた。元竿側に取り付けた真鍮パイプに先螺旋の切込みをつける。先竿にグラツキがないように印籠を入れて竿に元竿の螺旋の切込みに合わせ竿に薄い切込みを付けると云う物であった。当時としては画期的な竿でこれ以後延べ竿は急激に作られなくなって継ぎ竿が主流を占めて行く事になった。更に残念な事に其れまで作られた名竿の大半が二本、三本に切られ継ぎ竿に変えられていった。

この事は長い間、延べ竿が一本の竹で作られて来たが、継ぎ竿にした事によって竹本の調子を崩したと云う事で延べ竿派の人たちにとっては我慢のならない事であった。また、穂先一本を交換したり、姿や調子を合わせるために別の竹を使用する通称後家竿も大量に作られた。しかし、これ以後延べ竿派の人たちはダンダンと少数派になって行く。大量生産された為にまあまあ良い竿ぐらいは作られてはいたが、名竿と呼ばれるような竿はこれ以降は殆んど作られていない。それに癖のつき難い三年古や四年古以上の竿は釣具屋からは姿を消して、直ぐに癖が出る二年古を三年古と云い工期を短縮した竿が出回るようになった。

終戦直後、継ぎ竿にピアノ線で穴を開けて竿の中に道糸を通し小型同軸リールをつけた庄内中通し竿が開発された。この中通し竿は道糸を自由に出し入れできたので弱い道糸の欠点を克服し、尚且つ魚を自在に操れる事から庄内の釣人口を飛躍的に増やした。庄内竿=中通竿と云われるようになったのは、この画期的な発明による。グラス、カーボン竿の時代になっても盛んに中通しの改造が行われ、更に釣具メーカーでも庄内限定で中通し竿が作られた。但しこれらの竿は竿の手入れや保管が楽ではあるが、庄内竿特有の魚の躍動感、魚の微妙な竿に伝わる当りが伝り難く、魚のやり取りを楽しめないなどの欠点があり面白くないという人たちも未だ数多くおります。